日本写真で見る「満蒙開拓団」~東京開拓団(仁義仏立(じんぎふつりゅう)開拓団)~

「開拓団」の国民学校
(この子どもたちは、ほとんど死んだ)

東京出身の転業開拓団である「東京開拓団(仁義仏立開拓団)」は、1940(昭和15)年末頃から、1943(昭和18)年にかけて蒙古との国境に近い興安南省西科前旗へ入植した。そして敗戦した1945(昭和20)年、ソ連参戦から3日後の8月12日に避難命令が出され、関東軍のいる新京へ向け逃避行が始まった。当初700名ほどで逃避を始めたが、その途中、現地の暴徒化した中国人の襲撃やソ連の一斉機銃掃射攻撃、さらには自決などにより、生き残った者はわずかに10数名だけだった。


「開拓団」の国民学校で雑用係として雇われていた
中国人の少年(右から2番目)とその友だち
(この少年が「開拓団」の土地は中国人から奪ったものであることを知らせてくれた)
「開拓団」


「開拓団」の畑 「開拓団」の畑


「開拓団」の畑 「開拓団」の家


「開拓団」本部
「満洲国」の国旗(左)が掲げられている
開拓団」の入植時、現地の人々による出迎え
歓迎されていると勘違いしていたが、敗戦になると、、、。


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